2021/2/11 思うこと

父のこと

マ・レルラ デザイナーの
阿部真理です。

こちらにおたずねいただき、ありがとうございます。

父の机の上にいつもあったベネチアングラスのペーパーウエイト。どこにいったかわからないままなのですが、違うかわいい子がやってきました。
それを手にした途端、父のことが、鮮明に思い出され、書いてみたくなりました。

いつも父との思い出をあげはじめると、閉じられないビックリ箱みたいになります。

父は、本を読まない人間はダメなやつ、という思い込みがあって、いつも本に囲まれていました。
小さい頃のクリスマスには、毎年丸善から段ボールが届き、中には読ませたい本がぎっしり入っていて、自分の趣味じゃない本には、正直、ゲンナリした事(笑)

「あなたのメロディ」と言う素人が作詞作曲をして送り、採用されるとプロに歌ってもらえるという番組に、父が作詞、私が作曲をしてよく応募したこと。

そんな景色がティーンエイジャーになると激変し、気が強かった(過去形?)私を長男として育てるという方針のもと、ハードな状況が数ありました。

なにか言いたいことがあるときは、男女を問わず人として、途中で諦めず、しっかり自分の主張をするようにとの方針のもと、泣きながら父と数時間も討論する、というのはわりと良くあること。
ほめてのびる人間とほめると図に乗る人間がいて、私は後者、妹は前者と決めつけられ、面と向かってほめられたことはなし。

自立した人として自分の足でたち、一人で生きていける人間になれ、自分で稼げる人間になれ、二十歳すぎたら家を追い出す、とよく言われていたのには心底怖く足がすくみました。

そんなハードなのは、本当に嫌でたまりませんでしたが、何をするにも自分で考え、決めて、行動する、人に頼るな、という父は、逆に私が決めたことにはいっさい反対はせず、受け入れてくれました。

そんな教育は、確かに仕事では役立つこともありましたが、結婚して相手とうまくやっていくには、かなり無理があり、大変な二十代、三十代でしたが。

私の仕事には、全面的に協力してくれました。糸商で自営だったこともあり、ながいこと母子家庭だった時、小さかった子供達の保育園の送迎や食事等、私が思い切り仕事が出来るように応援してくれました。

父と言えば、最初に出てくるフレーズは、食いしん坊、というのは家族全員一致するに違いなく、おいしいものを食べることに貪欲で、魚を釣りに行くところからはじめ、徹底した料理好きもあり、毎日の夕食は、これまたこだわりやの祖母が亡くなったあと、父の仕事となりました。

揚げたてがおいしい、と天ぷらは父にあげてもらって、そばで家族が食べる、天ぷら屋さんみたいな構図。

妹や私が個展などでパーティーをする、となると必ずイワシや小アジの手鞠寿司を大量に作って届けてくれたりもしました。

そんな父が、ガンになり、入院したベッドの上で一度だけ面と向かって「お前は偉いな。必ず直面して物事を切り開いていく力がある」とほめてくれたことがありました。

口を利くのも大変なほど弱った父は「いずれお前が住むことになるところをみてみたい」と言い出し、今、夫となった主人が住む群馬に家族で出掛け、その旅先で亡くなりました。

それが、もしかしたらもっとあとになっていたかもしれない夫との再婚と群馬行きを大きく後押ししてくれ、家族を違ったかたちで守ってくれていると確信しています。

父が旅立ち、そろそろ二十年。
天国にいかれてしまった歳に近づいてきたことに驚くばかりです。